品貧生活研究所

目標︰街中に古本屋開業。小ナリワイ実戦研究中。汐入連合体育振興会副会長。横須賀市(神奈川県)⇔旭市(千葉県)の二拠点生活中。

「希死」燃料

【希死念慮】

僕は、複数の障碍(ヒズミ)が絡まりあっていると、自分では解釈している。

・哲学的「死」への恐怖と渇望
・AC由来の不安感
・アレルギー耐性の弱さ
・文学的「名前」の刻印もしくは出自歴史
・発達障害による偏差
・色彩論的マイノリティ被差別

どれもが希死念慮への道へとつながる。

要するに、とても死にたく、とても生きたいのだ。

【分裂と統合︙私の知らないわたし】

死んだら「あちら」に行くとしたら、僕はたぶん子どものころから、その準備をしていたのだと思う。常に引っ越しの準備をしていた。

死への準備(もしくは回避)の基礎として、「分裂」傾向が生まれる。

《ここに僕は居てはいけない》

そうなると、動こうとする働きと、留まろうとする働き、その両方がおこり、「自己」が散策を始める。あっちへふらりこっちへふらり。色んな地方に、おんなやおとこを作り、産まれる。

よくある話である。少なくとも僕の読んできた本にはこういう類のことはザラであった(「普通」は、あつらわれるべきことなのだ)だから、「生」とは畢竟そういうことだ、一般的なことである。もしくは社会で生きる人間は少なからず「分人化」する。

なので、文章のことでいうと、僕やわたしや俺やアタシはフラットに自分の中に共存し、カタカナ、ひらがな、漢字、英語、それぞれに好きなワードチョイスが働く。どんどん働け!!と思う。読み手は無視や!別の方向からは、それではダメよ♡という、声も聞こえる。

藤子Fの短編みたいである。

よくある話だ。

ただここからは程度の違いで無いと言える人もいると思うのだが、それは、分からない。自分では分からない、自覚のない「化ケモノ」が僕の中には確かに居る。なぜなら、

さっきまで居たと見られる「痕跡」が残るのだ。

ミステリーである。

キャーッ!!!!

【ポップかつエレガント兼泥だらけに演りたい】

「化ケモノ」は暴力的で、悪であり、制御不能性を有している。その「化ケモノ」性の散らし方、折り合い方、誤魔化し方、つまりはアウトプットの方法を、僕は母から「暴力性」でしか学んでいない。今の母は「宗教性」を身につけて、健康に演っているが、僕も自分でアウトプット方法を見つけないと、生けないと、切実に感じる。希死念慮がやってくるから。

飛躍であるが、たぶん、世界から戦争が無くならないのも、「化ケモノ」性の、持っていきどころとして、それが手っ取り早いからだと思う。

「化ケモノ」とか言って、カッコつけるけども、要はひとりひとりの人間が生きて死ぬ、悩みのその「表し方のひとつ」である。そりゃ、みんな抱えてるでしょ、多かれ少なかれ、ひとそれぞれ、だって、生まれて死ぬらしいのだから。だから〜、別に書いてもいいと思って、僕は書く。
  
【村上春樹的な世界への回帰】

ソクラテス・プラトン・アリストテレスが哲学の八割ならば、僕にとっての「物語」フレームワークの八割は村上春樹である。そして、村上春樹へのイミテーションラブで、僕や一部の世界は満たされている。やれやれやれやれ。もっとやれ。干支が一周して再読のタイミングがやって来たのだ。いつか再び村上春樹を読むだろうと思ったが、やはりきた。

そういうものだ。

しかし、僕はドケチだから。

あらゆるひと・もの・こと・感情・怒り・悲しみを、死への恐怖と渇望をガソリンに、ボロい原付きで60㌔を出す。

ブーッ