品貧生活研究所

目標︰2023年3月末、街中に古本屋開業。小ナリワイ実戦研究中。汐入連合体育振興会副会長。横須賀市(神奈川県)⇔旭市(千葉県)の二拠点生活中。

190508

『大きなもの』

自尊心はある程度は欲しいが、肥大すると、「俺は偉いんだ」となり、ひとに疎んじられる。相手をバカにした態度は、言外に伝わる。らしい。それを防止するには謙虚さが必要となる。自分は世界のほとんどのことを知らない、小さな存在であるという自覚。その自覚を持てれば謙虚になれる。はず。また、その謙虚さは自己卑下であってはいけない。自己を肯定していない、意固地さもまた、相手に伝わる。謙虚であり、自己肯定出来ているひとは、緊張を持たないひとである。そこに自分がいることに、安心感を抱いているひとである。そういうひとのそばにいると、そのぬくもりは伝播する。そういうひとの周りにはひとが集まる。みんな寒いのだ。太陽がないと我々は生きられない。だから、僕は太陽を見る。太陽を見て、謙虚さを、目に焼き付ける。かなわない、のだ。どうしたって。話は「大きく」 なるが、後天的に、人工的に太陽を作り出すと、原子力事故が起こる。しかし、太陽に恋い焦がれ、近付こうと憧れ、太陽に自己を投影しつつ、同時に超克しようとする営みを僕は否定できない。より「大きな」ものへなろうとする意志を、無下にできない。だから、経済成長も原子力もオリンピックも声高に「NO」とは、言えない。頑張ろうと努力する背中を拒めない。そうであることを尊重するが、自分はそうではない。そして、その二つは共存できる。少なくとも僕のうちでは。かといって、そうであるひとに、そうでない自分を認めてもらおうと、期待してはいけないのだな、と思う。それは傲慢な態度であり、謙虚さに欠けるのだ。努力するのはそのひとの自由であるが、努力するひとからみたら、努力しないひとは怠惰なのだ、謙虚さが足りないと見られる。そしてまた、世の趨勢は「大きな」ものになろうとする意志が動かしている。頑張るひと、努力するひとが幅を利かせる。勿論、僕も頑張れるひとになりたかった。キチンと努力できるひとになりたかった。いまだに、その憧れが捨てきれない。でも、自分自身を顧みるに、自分なりに「頑張っていた」ような気がする。顧みると、しかし往々にして過去を美しいものにしたがるヤナ感じ。ただ、頑張ろうと頑張ってみるだに、それは頓珍漢な結果になる。僕の頑張りは他者には怠惰以上に面倒くさい迷惑となる。逆効果なのだ。だから、何もしない。するとまたそれも怠惰となる。他者には永遠の半人前を予告される。自身には「犯人前」を予告する。僕がいくら、緊張しようがしまいが、そこにはなにも産まれない。すると、もう、いたたまれなくなる。いたたまれなさが溜まると憤り、それを過ぎると、怒りのようなものが産まれる。怒りなら僕は産める。そして、その怒りが他者に向かう。先鋭化された怒りは刃となり、他者を傷つける。僕がテレビを持たないのは、ひと殺しの知らせを他人事のようにおかずとして、飯を喰うという、破廉恥さを持ち合わせていないからだ。恥ずかしくまた、目を背けたい。なぜなら、気持ちが分かるからだ。しょうがないじゃないか、と。それ以上に自らの積極的な意志で取りにいくものがある。刃を己に向けた知らせだ。ヤフーニュースで、グーグルで、事細かに調べる。恐らくは、そうならないための、自制のためであろう。自己防衛のために、不幸なひとを探し出す。「俺はあいつよりマシだ」と。趣味の悪い話だ。こういう、二元論的な、優劣のある世界観の変革を僕は自分に要請している。それもまた自己保存のために。人間革命。それな。か、か、か、革命だ…。ひとりで、俺様国家の樹立である。しかし、ひとりで生きられないのも芸のうちと、書いてあった本は今何処に…、家だ。家に閉じこもって本を読もう。死んだひとたちの言葉を貰って、やり過ごそう。いつだって、逃げ場はある。なんだかな、直截的に言えば、僕は誰かの逃げ場所になりたい。そこで本当は無料でやりたい。でも、僕も生きたい。だから多少お金が欲しい。しかし、過去の自分を救済するために、誰かを利用するという、「誤り」を含む行為を期待している自分に矛盾を見る。自分ではない誰かに期待すると、自身に傷が付く。何かを求めているのに、何かを求める行為には危険を孕むことも分かり、怯えている。妄想なのか、考えても不毛なことなのか判別できる知恵を我に!と太陽に拝みながらも、「そんなふんべつ臭えやつは飽き足りないね」とお月様が語りかけてくる(そんな幻聴はいまだ聞かぬが)。踏ん切りの悪い、硬い硬いうんこのような者だ💩通ると周りを傷つけて、いなくなれば痛みは和らぎ安寧の時が来る。やだな、「血」が流れるのは(実状)。「大きなもの」とはそういうことです。