品貧生活研究所

目標︰2023年3月末、街中に古本屋開業。小ナリワイ実戦研究中。汐入連合体育振興会副会長。横須賀市(神奈川県)⇔旭市(千葉県)の二拠点生活中。

洗脳チャレンジへの一歩

《理想と現実の世界は全然違っています。幻想ともいえる理想の世界を捨てたくないのは、現実がつらいからです。つらい現実から逃れるために幻想の世界を自分の中につくり出してしまい、ありもしないことを考えて「NO」と断らないでいると、現実の世界でつじつまが合わなくなってしまい「ますます現実がつらい」ということになります。すると幻想の世界で生きることがやめられなくなって、さらに「NO」と断れなくなってしまうのです。ですから、「相手のことを優先しそうだ」と思ったら、幻想の世界で生きようとしている自分がそこにいるということです。そして、そこに留まることは「現実の世界でつじつまが合わなくなりつらさが増す」ということがなんとなくわかっています。そこで「自分のことを優先」してみて、現実の世界で生きてみることです。》引用『「断れなくて損している」を簡単になくせる本』大嶋信頼p126

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"矛盾するようだが
激烈なる変化を求めるあまり
そうさ
死んでしまう人がいる
無駄死にさ
やめた方がいい"

引用『so many people』エレファントカシマシ

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誰もが弱く、誰もがさみしいから、誰にも優しくありたいという、「誤謬」を僕は認める。他者は君(僕)なんかよりも、ずっとタフだし、ずっと図太いし、ずっとずっと「自分を生きている」。ずっとずっとずっと弱くない・強い。かなわない。

僕は容疑を認めざるを得ない。

僕はそういう他者のタフさを「ノー天気」や「しあわせなひと」や、分かりやすく「リア充」と、見なし、蔑み自分の平生を保ってきた。ひとから見たら、不自然さ丸出しだろうに。

僕や彼や彼女やあなたは、別人なのだ。別人として「俺とは違う」と下に見ていた。だから、元々分かっていたのだ。つまり、ひとりひとりは違う人間で、全然違う生命体なのだと。それなのに、自分の家族や、俺に似たひとたちには、過剰に親近感と同情心を勝手に覚え、自分とのボーダーを無いものとしていた。だから、僕は、はじめからの、元から立っていた地平に戻るだけで良い。「アイツらと俺は違う」そうであるならば自然、「母と俺は違う」。それでいい。

逆に、何と何が逆なのか掴めていないが、だからこそ、僕は他者の多様性を認め、また、求め得ることができるはずだ。

ごちゃごちゃ五月蝿いけど、同語反復はなはだしいけども、僕はそういう「たゆたい」なのだ。
それでいい。

どーすれば、自分で自分を生きられるか?

その私的なアプローチのための、墨汁1滴である。
おそろしや、その1滴が僕という生命体の、A〜Zなのである。「これ」しかないし、「これ」をやりきるしか、「役」が無いのだ。

お姫様役でなくても、王子様役ではなくても、路傍の石F役が僕に与えられた役ならば、それを演じきることが最良の選択であり、配役への異議申し立ては不可。舞台放棄以外には無い。

脚本は誰だ?監督は何処にいる?

そういうのは、無粋だぜ。

「奥さん、野暮はよそうよ。」
↑是非、こう言うセリフを僕の台本にも描き入れてほしい。追記でもいいから。

どうすれば自死に至らないでここに居られるか?

僕のフォーカルポイントはそこである。

あなたは、違いますよね?

それでいいと、想います。

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生きようとする力

死のう死のうとする生命原理

その往来の補助線として、
「倫理のある欲望」を自分で引く。
もしくは、結果として引かれる。
その線が補助であり同時に本線となる。

もう、しょうがないじゃないか!

美学の領域である

好きな服着て、カッコつけて、旅行して、デートして、子どもや猫を育て、ステーキ食べて、胸を張って、糞して、死ぬ。

たぶん、「愛だ平和だ」言うてる輩は、おのれが気ぃ狂わんがためにゆーてるだけやないかと、疑って惑わない。でもそれって、僕はまっとうだなと、思う。ひと昔の脚本家が言ってた「生きてるだけで、愛」。好きだった舞踏家が言ってた、天賦典式(この世に生まれ入ったことこそ大いなる才能とす)。ほんと、そうだよ。そっちのが、楽よ。

でもさ、ひねくれてるんだなぁおらあ。マジなはなしで、アベ政権反対とか、戦争反対とか、なんでもいいんだけど、「みんなが言ってることに声を合わせて大きな声で」「NO!」ってさ、マジな顔して正義を気取ってというのもあるんだけど、その顔を鏡に映してご覧よってのもあるんだけど、メッチャ気持ちいいんだろうな。本当に心から、腹からその声が出ていれば。「NO」って言うのって、病みつきになるんだろうな。生きてる感が全開なんだろうな。外来語の悲しみよ。

ミイラトリになってもいいから、ミイラになりたいような、なりたくないような。判断するために必要な、安心感が不足しているのだ。

俺には「カミ」の言葉があるじゃないか!

自己啓発本には即効性がある。それは対症療法だ。煙草みたいなものだ(語弊を含む)。だから、効くのだ。あまりにも答えらしいものがそこには有る。解決がそこに見つかる。他人の言葉で書かれた、そこに安心感は確かにある。でも、そうなのか?とも思う。ヒントや、入口にはなると思うし、その積み重ねが現実的な生き方であり、建設的であるとも思う。だから、読む。ただ、途中で苦しくなる。書かれてることが、自分に当てはまるから。本当のことだからかなのか。苦しくなる。

ただ、根本を療法するのは、その是非は知らんが、自己治癒力だろ!とも思う。確かに解決を促す助けに、自己啓発本はなる。

文学も、あるじゃないか!

一方で、ひとりひとり違うはずの、個々人の問題に寄り添うのが文学だと思う。ひとりひとり違うはずの人間の痛みや苦しみに自分が重なる。幻想だ。逃避だ。分裂するぞ。毒があるのだ。解決を目指さない、折り合いや我慢や諦観が文学書には。だから、小説、特に純文学と呼ばれる本も僕には必要だ。薬も毒も合わせ持つものが、世界を征する(浦沢直樹の漫画に描いてあった)

「本」の毒にヤラれた、同時に救われた、珍しくもない、でも、多くもない、そんな系統に自分が連なることに、目には見えない他者たちとの繋がりを感じるとき、僕は安心する。

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様々な種類の不安は色んな妄想を伴う。妄想が自分を苦しめる。でも、私的な死的な詩的な妄想の現出もまた、生きることを、優しくする。という、自己弁護兼宣伝でした(ブログページ冒頭記事へ飛んでくだせえ)。

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