品貧生活研究所

目標︰アルバイト卒業【1L2CK.YOKOSUKA】(イベント・レンタルスペース)/毎月第三土曜日【贈与喫茶Mr.エレファント】(無料カフェ)/毎月最終土曜日【哲学カフェ横須賀】/【なんでもやっとうと?】(便利屋)⇒「あなたの小銭が必要です」

オロカを生きる

おはようございます。
こんばんは。

今日も終わり、明日が始まりますね。

あなたはどうですか?

【図書館を生きる】

図書館行きますか?
僕は図書館嫌いです。
タダで本を読むという了見が気に食わねえな。
身銭を切って読むのが本や!

でもですね、金がない。
あと、もう人の一生分本に金を払ったという自負から、もうそんな肩ひじはらんとええんちゃうかと、己の内に、西から声がこだまします。

せやから、図書館で本借りました。

【路地裏人生論 平川克美】
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平川さんは大田区生まれで、町工場(こうば)で育った人だ。僕は平川さんの文章が好きで、著者の半分くらいを読みました。なくてはならない文章など、この世にあるのかと問うならば、そんなものはないのだけれども、勿論僕のこの文章もそうだが、なくてもよいものこそ、必要でない無駄なものこそ、我々には必要なのだということを、平川さんの文章は教えてくれます。

【蒲田を生きる】

10年以上昔、九州の福岡から僕は大田区蒲田に上京してきました。風呂無しトイレ共同4畳半、家賃2万円共益費3,000円のアパートでした。19歳でした。

隣の部屋の肥ったおじさんは、工場(こうば)に勤めている方で、月曜日から土曜日まで働き、日曜日には競馬中継のラジオが壁越しに聞こえてきました。おじさんの「いびき」が凄くて、半年も経たずに引っ越してしまいましたが、時折すれ違う時に見た、おじさんの錆色の手と、すてばちな表情を今も覚えています。東京で初めて見た労働者がおじさんでした。

【東京を生きる 雨宮まみ】
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何か自分と重なる部分を持つものに、愛着や関心を持ちます。平川さんの本を読むきっかけとなったのは「銭湯」がキーワードであったし、「大田区」も親近感を覚えました。

雨宮さんの本を読んだきっかけも、福岡市出身ということでありましたし、既に死んでしまっている人ということもありました。既にこの世にいない人の言葉から、生きる力を引っ張ろうと思います。本を読むことは生きる力を引っ張ることだと僕は思いますが、それはまた必要でない無駄なことでもあります。何が必要で、何か不必要なのかその境界を見極める力が僕は欲しいです。
 
以下『東京を生きる』の言葉を拾います。なんかケチだなと思います、読者メモです(笑)

【故郷での自分は分裂していて、居心地が悪い。】
p7

先日のお正月に久しぶりに帰省したのですが、懐かしさと一緒に早く東京(神奈川)に帰りたいという気持ちが常に同居していました。いたいけど、いたくない。タバコを吸いながら、タバコが吸いたいなと感じ、いやいや今吸ってるじゃんと自身にツッコみ、ああ、不味い不味いと思う。雨宮さんは「早く戦場に戻らなければ、という気が、いつもする。」と表現されている。

【福岡で生まれて福岡で育ち、私は福岡でセックスをしたことがない。】p25

なんやろ。煎じ詰めるとそういうことじゃん。「セックス」だよ。人に届く言葉(少なくとも僕には響く)の、飾らない強さを感じる。「抜き身」≒「むき出し」でしか生きられない人の、哀しさとそれへの憧れを、本書全体より僕は感じる。さぞや生きづらかったでしょう。

【私が欲しいと思っている美しさとは、強さや優しさや勇気や、誰になんと思われようとそのときの気持ちに正直に行動することなのではないかと思う。】p37

そうでしょう。

【家族と暮らしていた頃は、しょっちゅう怒っていた。全力で怒鳴りあったり、叩かれたりしていた。苛立ちを隠すことなく、八つ当たりをして、見苦しい姿を晒していた。そういう自分がいやで家を出たのだから、そういうのはもうやめようと思っていた。】p50

奇特なあなたは、もうお気付きだと思いますが、弊ブログは「横須賀の谷戸における、次の時代の新たなライフスタイルの提案」を主旨としてスタートいたしましたが、始めてみますと、「こじらせ青年(おじさん)の病理治癒日記」に意匠替えしております。しかし、一見、転向したように見えますが、生活を、ライフスタイルを僕なりに誠実に研究していきますと、己の足元を、過去を照らすしか術がないのです。光量がたりないのですよ。ですから、「横須賀汐入谷戸メンヘラ生活研究所」と看板をチェンジしてもよかろうかとも思ったり、思わなかったり(笑)

ライフ(生活・生命)とファミリーは切っても切り離せないものかと思う所存です。


【「魂を捨てる気がないなら別の土地になんか来なければいいのに」】p52

二度と帰ってくるか!と思って、捨てたはずの故郷に定期的に帰省して、居心地の悪い思いをして、苦しい想い出を想起し、親族には呪詛の詞を投げかけられたり…。全部自分で撒いた種、受け容れろとまでも腹を括れない半端な自分。愛着と別離。代案としての、横須賀でのフルサト創設への試み。分裂した自我を一つに集約する努力よりも、分裂したそれをそのままにキャッチする「お皿」=「居場所」を用意する努力の方が、これからの自分に即した行動のように思います。具体的にいうと多拠点生活。精神のリスクマネジメントとして。複数の中の一つとして、「福岡」を位置付けられれば良いなと思います。和解とも、違う。相手は関係なく、僕の「受容」の問題として。【振り返らないようにしてきた場所。居場所はないのだと、追い出されたのだと、いや捨ててきた土地なのだと、何度も言い聞かせ、思い込んできた場所。】p134

【恥ずかしさを生きる】

図書館で借りた本書の表紙に、線ひきありのシールが貼ってあった。ピンクのボールペンで線が引かれたその部分が以下。

「自分は天才ではない。けれど、気がつけば書くこと以外の人生を考えられなくなっていた。(中略)ただ書くしかない。」p80.p81

歌っても、踊っても、絵を描いても、漫才をしてもあらゆる表現は恥ずかしいことだと僕は思います。そういうことをしないければ満たされないことは悲しいことだと思います。何もしなくても幸せな人が幸せな人です。ブログもそうです。Twitterもフェイスブックだって。でも書かざるを得ないくらいに、やらざるを得ないほどに、あきたりない、満たされない。業の肯定が落語だと立川談志は言いましたが、うん。そう思います。恥ずかしいことを生きる、生きるのは恥ずかしくてよいのよ、と今は死んで、いない雨宮さんの言葉が教えてくれます。

でかけましょう。

また。