品貧生活研究所

目標︰2023年3月末、街中に古本屋開業。小ナリワイ実戦研究中。汐入連合体育振興会副会長。横須賀市(神奈川県)⇔旭市(千葉県)の二拠点生活中。

『くるま暮らし。』静慈彰

副題が、「社会不適合僧侶の究極ミニマル生活」である。作者は「しずかじしょう」と読む。

1年前に、車で生活している男性に出会ったことがあります。まともに話もしなかったが、えらく、笑顔溢れる人であったことは覚えている。

世の中には色んな人もいるもんだ。その程度の記憶でした。

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「これは、私のことだ」と読者に思わせる文章が、優れた文章であるならば、静さんの文章は私には優れた文章であった。

例えば、アトピー性皮膚炎の記述。

『悪化させると、24時間、激痛に苦しめられる。熱も出る。何もできず、何日も何日も、寝ているしかない。本当につらくて夜も眠れない。精神的にもまいってきて、心が折れてしまう。「おれの人生なんやねん」と絶望的な気持ちになる。』p132より引用。

私の読書とは、「自分は独りではない」という思いの確認作業のような、「生きる勇気」の補充行為なのだなと、改めて思います。自身の周囲をイエスマンで固める不安な人々と同じです。大小違えど、「不安」はあまねく人々に、あり、私にもあなたにもある。形が違うだけだ。

『闘い疲れてうとうとすると、1時間もしないうちに、また強烈な発作で叩き起こされる。そんな繰り返しが続く。まともでいられるのは、1日のうち数時間だ。痒みや痛みは、この世の生き地獄だ。永遠とも思える苦しみに、僕はもがき続ける。』p158より引用。

静さんは生きることに、もがいて、もがいて、もがききって、車中泊生活という、幸せの形に行き着いた。

ふと、思うのは、本を書くという行為である。素人のこの私のブログ文でも言えるが、何故他者に読まれることを欲するのか?私はずっとそれは、承認欲求を満たすための、因業な、強欲な、恥ずべき行いであると思っていた。端的に変態だと思っている、今も。

特に自己啓発本の類はすべて、「どうですか私のライフスタイルは!素晴らしいでしょ?あなたも真似したら私みたいに幸せになれますよ!」とナナメに読んでおり、憧れの眼差しと同時に蔑視を作者にくれてやっていた。

それはそれで間違いではないだろう。人は認められたい生き物であるからに。

ただ、この本を読んで思ったことは、こういう「生き延ばし」の方法もありますから、死なないで、共に生きましょうよ、それであなたが死なないなら、書いたあたしも嬉しいよという、本って、一つのセーフティネットだよなってことです。生きることの可能性の拡大の一つだなと。

『つらい、苦しい。自己や他人への叱責が止まらない。そういう下水やゴミのような感情に取りつかれている時、同じような人に出会えて、その人が話を聞いてくれたら救われる。孤独ではなくなる。立ち直るきっかけになる。僕は"ゴミ箱"のような、そういう人の受け皿的な存在でありたい。』p184より引用。

このような、自分の存在を超えた、他者の幸せに通じる言葉を持たないと、本は読者に届かないのだと思います。利他的でありたいと思う気持ちに限りませんが、少なくとも自分のためだけではない、言葉です。

まさにこれは私のことだなと思った文章があります。静さんは自身の車中泊生活について以下のように言います。

『でも僕は、そういうアウトローなライフスタイルを人にはあまり勧めたくない。愛する家族や信頼できる仲間に囲まれて、信頼できる社会の中で生きることができれば、それはとても幸せなこと。「普通」や「常識」がみんなと共有できれば、それにこしたことはない。でも、もし僕のように生まれついてしまったら、あるいは後天的にそうなってしまったら仕方がない。もちろん、「普通」に戻れるなら戻ったほうがいい。戻れないなら、無理して戻る必要はないと知っているだけで気が楽だ。それでもちゃんと生きていけるほど、世界は広くて、人間は多様だ』p190より引用。

数年ぶりに実家に帰った時に感じた「普通」への、劣等感が思い出される。普通に働き、普通に恋愛をし、普通に結婚をして、普通に子どもを授かる。普通のなんと、困難なことよ。

笑顔で車を運転したいものです。

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『「僕」を見つけた。「自分を理解すること」「他人と繋がること」この2つは同じだと信じる。』p196より引用。