品貧生活研究所

神奈川県横須賀市汐入町の谷戸(自動車の入れない階段を200段登る)における、「品」と「貧」の共存を目指す生活を研究し、その成果を報告する在野機関。研究所にカフェの併設を目論む。

『社会の抜け道』古市憲寿 國分功一朗

國分 自分の本に引き付けていうけど、俺は二〇世紀の消費社会のシステムにはやはり批判的。消費と不満足の悪循環をつくり出すことで大量にものを売るっていうのが消費社会の定義だけど、この、買って捨てて繰り返すシステムというのは続いていかないだろうし、望ましくもない。とはいっても、「消費社会の終焉」とか「資本主義の終焉」とか、そういう大袈裟な話は古い左翼の誇大妄想に過ぎなくて、何の役にも立たないし、自己満足のスローガンでしかかない。何か革命的なものによって消費社会や資本主義が終了して、新しい社会になるなんてありえない。いまある経済は残るけれど、そこに新しい経済の在り方が上書きされていく、そういう形でしかシステムの変更は考えられないと思う。p57、58

古市 「反消費社会」というのも一つの記号ですよね。事実、そういった運動は、一九六〇年代以降だけでも、何度も繰り返されてきている。「反近代」を掲げる運動ならそれこそ近代と同じくらい歴史が古い。何度も繰り返されるということは、運動の理念が結局結実していないからですよね。
 「エコ」「環境にいい」「サステナビリティ(持続可能性)」「脱経済成長」っていう耳触りのいいことばをまぶして、世代を超えた人々が目を輝かせて緑の中で笑っている。そんな抽象的なイメージ自体はあふれていますけど、実際に反消費社会的な生き方ってイメージしにくい。p88、89

 

 

 自分を記号で、くくることは、自分を楽にさせる。
 逆に縛ることもあるだろうが。
 
私は〇〇である。
 
これをたくさん持てれば楽なのではないだろうか?

 

(例)
私は母である。
私は妻である。
私はパートである。
私は子である。
私は老人である。
私は会員である。

 

所属場所を増やすことが大事だ。

内面はどうかな?

 

(例)
私は短気である。
私はのろまである。
私は水虫である。
私は優柔不断である。
私は寂しがり屋である。
私は臆病である。

 

短所ばかり目に付く。

大丈夫。

短所は長所(笑)

 

言い切るには妥協が必要だ。
あきらめることが必要だ。
振り切ることが必要だ。

言って、あきらめて、振り切れば、楽になれる。

 

手ごろな言葉に自分を預けてしまえば、自分を名前に押し込んでしまえば、言葉が名前があなたを守ってくれる。特に英語なんかのカタカナが気楽で良いと思う。

 

(例)
私はパリピだ。
私はインキャだ。
私はオタクだ。
私はプレカリアートだ。
私はフリーターだ。
私はパーソナリティシックだ。
私はミニマリストだ。

比喩的だが、
私を世界に分散させること。
私をみんなの中に溶かし込むこと。
そういうのが楽だと思う。

自分と世界をどんどん繋げること。
その仲介者が「言葉」なのだ。

「言葉」で世界に落とし前をつけるのだ。

もしくは折り合いを。

人によっては、「酒」でも「異性」でも「ダンス」でも「ラーメン」でも良いのだ。

 

古市 (中略)消費社会からうまく距離をとるためには、消費者が努力や学習をしないとならない。結局、それって一部の人しかできないんじゃないですか?
國分 確かにそれは誰でもがすぐにできることじゃない。反消費生活的な生き方は、さまざまな工夫が必要だろうと思う。p88

結論 

 

趣味:他人の工夫を集めること

 

*引用は全て表題著書より。

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↑p72より『池袋にある「たまにはTSUKIでも眺めましょ」という有名なオーガニックバーで…(略)』10月20日お待ちしております。あなたの工夫を教えてください。