汐入谷戸品貧(ヒンヒン)生活研究所

神奈川県横須賀市汐入町の谷戸(自動車の入れない階段を200段登る)における、「品」と「貧」の共存を目指す生活を研究し、その成果を報告する在野機関。研究所にカフェの併設を目論む。

庇護

庇護・・・かばいまもること 広辞苑第七版より

 

20代は子どもである。

30代は子どもではない。

40代はどうだろう。

50代は折り返しのポールが立つ。

60代は子どもである。

 

近頃、つくづく思うことは、人生のけっこうな古参になってきたなという実感である。もちろん、40代、50代の先輩たちから見たら、「何を生意気な」と言われるだろう。ただ感覚的に普段生活をしていると、道行く人々等、特に買い物の時が分かりやすいのだが、店の人がけっこうな確率で年下なのだ。洋服屋さんに行っても、スーパーに行っても、本屋に行っても。時折出会う新たな人たちも、「年上かな?」と思ったら意外に年下だったという経験も続く。今まで(広くここ2,3年)は、店の人って言えば、お兄さん・お姉さんだったし、日々の端々で名刺をくれる人は自分よりも年上の大人だったんだでやんす。

 

人は齢を取る。

 

ただそれだけのことなのだが。

 

誰しもが、初めて、齢をとる。初めて20代を終え、初めて30代に入り、初めて40代を迎える。そういう「言い方」はもっともだし、勿論、「生きれる時まで」という注釈は必要であるが。

 

そして、今、この瞬間まで生き延びている。

それは、庇護されてきた、アカシなのだ。

20代の時はそれに気づいていなかった。誰もオレを見ていない、守ってくれていない、だから庇護を求めていたのだろう。齢をとることの良い点として、過去の解釈を変更できるということを、最近よく体感する。生きるエネルギーの低下という側面もあるにはあるだろうし、「暇」だからそんなある種、ノ~天気なことを言えるんだよ、との意見もあるだろうが、20代の私は充分に庇護されてきたのだろうとの感慨に耽る。(20代の私が聞いたら、「なんと生きることにしぶとい、ずうずうしい、オ・ト・ナですね!」と嫌味の一つも言っただろう。)

 

そこで、そろそろ役割を変える準備を、と思う。

 

子どもから大人への準備である。

 

この準備において、少し上記の内容と矛盾するかもしれないが、年齢は関係ないのだ。18歳が大人だとか、20代は子どもだとかではなくて、それぞれの人による、ということで。12歳で大人になろうと決意する少年もいれば、51歳からそれを決意する少女がいてもいいのだ。早ければ偉いのか?遅いことはたいそうご立派なことなのか?そういう、解釈は排除して。

 

しかも、これは別段「義務」ではない。

 

極端に言えば、「道楽」で大人になろうとしてもいいのだ。

 

大人とは?

小さきものを庇護するものである。

 

目の前の者を、「小さい」と自分で思える者を庇護したいと、思うその気持ちが大人のアカシではないだろうか?そのように思う、オレは大人なのだ。もう、少しだけだけど。さみしい気持ちもあるけれど。

 

そんな風に、大人から庇護されながら、僕よりも「小さき者」と共に、泳ぎながら思った。川の中で。

 

~~~←川の流れ

 

その川の先と言いますか、上流なのか、中腹なのか、下流なのか、たどり着く果ての母なる海なのか、はたまた溢れ出す山の源なのか、分かりませんが、

「損」

というキーワードが大人への道であるとの確信があるんでやんす。