品貧生活研究所

神奈川県横須賀市汐入町の谷戸(自動車の入れない階段を200段登る)における、「品」と「貧」の共存を目指す生活を研究し、その成果を報告する在野機関。研究所にカフェの併設を目論む。

男の怒りをブチまけろ!化ケモノ青年in横須賀汐入谷戸

政治家にもバカがいる

警察にもバカがいる

先生にもバカがいる

子供でも知ってるよ

*1

 

B「友に友の悪口を言ってはならぬ。

つまらん冗談はよせやい。

口の訊き方に気をつけろ。」

 

A「・・・はい。」

 

B「働けバカ!俺の税金を返せ、バカ!」

 

A「へぇ・・・。しかして、顔なき、記名なき社会や、厚顔な為政者への悪口は良いのですか?」

 

B「そりゃ、社会への悪口は大きな声で言っていいよ。でも、絶対、友への悪口は死んでも言うな。」

 

A「・・・そうなんですね。それは良かった。では・・・」

 

会社にもバカがいる

インターネットにバカがいる

どこにでもバカがいる

子供でも知ってるよ

*1

 

 「自分」という存在は否応なく「誰か」という存在の否定になってしまう。それは、自分が歩めなかった、自分が脱落した、自分ではついてゆくことのできなかった道を、今も歩んでいる「誰か」から見ると、まるで、自分が選なかった道、と見られるから・・・、

 

選択肢は無かったのに。

 

選べなかったことは、

選ばなかった、こととして捉えられる。

 

ならばなので、ことさらに、無理に、生きる旗をかかげずともよいのだ。生き方を選ばずとも、すでに俺は俺を生きている。

 ハタから見れば。

 

何者かを目指さなくとも、

周りの「誰か」と年月が、

オレを何者かに、してくれる。

ハタから見て。

 

他人のことをバカバカと

言う奴ほどバカなんだ

どこにでもバカがいる

子供でも知ってるよ

*1

 

問題は、オレを見ている、このオレは何者なんだ?

ということだ。

「これ」は池田晶子(*2)が死ぬまで考え続けた、

「それ」なのだが。

「これ」や「それ」に絶対的な正解としての答えはなく、暫定の積み重ねでしか、自分の言(げん)は続かぬ。

 

周りなんて、関係ない。

自分に集中するんだよ!

*3

 

その自分という存在の不思議を抱えつつ、その不思議さを言い訳にせず、しかし、自分はどうするか。

運命も陰謀も放擲して。

 

どうするか。

 

青春の残像がフイをついてやってくる

悪魔の慟哭こっちへおいでよ

我々をおとしめる

我々を泣かせてしまう

青春の慟哭

悪魔の囁き

*4

 

こっちへ君が来てよ。

いやいやあなたがこっちへ来てよ。

友だちでしょ?

恋人でしょ?

 

 エーイ!

葛飾北斎以来

曲亭馬琴以来

ポンニチジンのアートは

化ケモノ青年

おめえもだよ

おまえもだよ

おめえもだよ

化ケモノ青年

やれるもんなら

やってみろ

腰抜け!!!

 

Hey!

 

*5

 

今朝も、横須賀汐入の谷戸では犬の声が、こだましております。

 

谷戸ももう午(ひる)に近くなったのでございましょう。*6

 

注)文字の大きさは声のそれに比例します。

 

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*7

 

だからって、僕は、僕を、諦めない、僕は、誰かを、見捨てはしない、年中無休(土日を除く)*8

 

 

*1 ザ・ハイロウズ『バカ(男の怒りをブチまけろ)』より引用

*2 哲学者

*3 夏の日、通勤経路の住宅街、マンションの2階から、いつものお母さんと子供(4歳くらいの男の子と推定)の、漏れ聞こえる、朝の支度会話より引用。あの子も今頃小学生だろう(推定)

*4 エレファントカシマシ『化ケモノ青年』より引用

*5 エレファントカシマシ『化ケモノ青年』 ZEPP TOKYO”新春ライブ2006”版より引用

*6 芥川龍之介『蜘蛛の糸』最終文より本歌取り

*7 山川直人『珈琲色に夜は更けて シリーズ 小さな喫茶店』p111『病気の名前』より撮影

*8 小学校卒業文集の林君による鬼のイラストレーション作品のキャッチフレーズより引用→「年中無休(土日を除く)」、部分