汐入谷戸品貧(ヒンヒン)生活研究所

神奈川県横須賀市汐入町の谷戸(自動車の入れない階段を200段登る)における、「品」と「貧」の共存を目指す生活を研究し、その成果を報告する在野機関。研究所にカフェの併設を目論む。

居場所考:朋輩編

金のかかる居場所と、金のかからない居場所がある。今僕は前者から後者への移行を試みている。結果はどうであれ。

前者の代表は店で、後者の象徴は家族である。

 

金のかかる居場所は、わりと容易に手に入れることができる。なぜなら、「お客様」をむげにはできないからだ。その、気楽さから抜け出せない。僕は。多くの人もそうだと思う。後者は時間と忍耐と繊細さをともなうし。

詰まるところ、客と店はフェア(公平)でありうるのだろうか、という命題に僕は定期的に当たる。(なんでオレはこんなにも客にペコペコしなきゃいけないんだと、思っていた7年間の過去もある)

 

どういう状態をフェアと言うのか。
そもそも、ありうるのか。
もとより、求めてはいけないのか。

「ありがとう」をお互いに言い合えればそれが、フェアなのか。お互いに「ありがとう」さえ必要としない、言葉を必要としない関係がフェアなのか。ため口を聴き合えばフェアなのか。サービスとそれに対する金が見合っているとお互いに思えればフェアなのか。

しかして、フェアになると継続性が無くなる。

等価交換(ふぃふてぃふぃふてぃ)になると、

関係は断たれる。

僕は、コンビニやスーパーマーケット、アマゾンでの関係をそれの例とする。
一度、一度、毎度、毎度、お互いに「かし」を清算する関係。あと腐れがない。文字通り現金な関係。

 

つまり、コンビニやスーパーマーケットでの買い物はフェアであるが、居場所とはならず、町の八百屋やカフェでの買い物はアンフェアであるが、アンフェアであるからこそ、継続性を持つ居場所となる、ということを言いたい。
そういう、「きんじょ」の、顔の見える人のところで金を使いたい。てやんでい。10円、100円アマゾンさんより高かろうが構うもんかって(そう、いつもいつも思えないから自分が嫌になったりする。そんな、気楽に考えればいい話ではあるのだが)

 

よしよし、分かった。きんじょで金を使えと俺は俺に言いたい。あんまし横浜や東京やシリコンバレーに、貴重で大事でかけがえのない金を落とすなよおれ、と。

そんで、きんじょの店と客の関係について。
我々にフェアな関係は無いと、断言しよう。
それは、スタバでも、ドトールでも、コメダ珈琲でも、きんじょのカフェであっても、客からのアクションでしか我々と店の関係はスタートしないことを根拠とする。一方的なのよ~、あたしたちの~関係って、どこまで行っても。

店にはしかし、その客のアクションに応答する義務がある(出入り禁止等は除くが)。

金がない奴は客じゃねぇってのが店である。

 

☆:金さえあれば居場所は作れるのだ。

たぶん、いろんな角度から、店と客の関係は語ることができると思う。だから、これは一面的な考え方、見かたであると思う。

 

提言:客同士はフェアだ!客と友達になろう!

金のかかる居場所(店)にて、金のかからない居場所を見つけよう、という仮説の話。それって、キャバ嬢からラインのIDを聞いて、今度の日曜日にデートに誘おう!と、構造は同じかな。率直にケチなだけか、もしくはそれこそ真摯に人間と人間が向きあうためか、はたまた建前方便か。

 

わからない。

 

コミュニケーション無料の時代を取り戻そう!とか、ベーシックインカム制度を導入しようとか言い出しそうだが、このごろ立て続けに、在り難い助言(おせっかい)なのだが、

 

「(兎に角)働け!」

 

と今月に入って3人(の天使か悪魔)に言われる。

 

以上

 

のような愚痴を無料で聴いてくれる「朋輩(仲間)」を今オレは持ってて*、在り難いなとつくづく思った帰り道、財布を落とす。

 

良いことがあると悪いことがある

(逆も可)。

 

*オレの話を聴いてくれた朋輩は、実在の人物なのだが、このように文で持って「ブログ」というある種の辺境者、偏狭者、偏狂者のいれる「場」が在ることが、とても、そのような人種に救いのような機能を果たしていると思う。てめえ(僕)の鍵の付いた重厚な表紙のお日記にでもその日のその日の悩みや喜びを書いて、家の机の引き出しにでもしまっとけ、とんっちき!と思わないでもないので、完全にエクスキューズな蛇足なのだが、インターネットという排出ダクトを通じて、今もまた、これからもまだ、キャッチしてくれる、レシーブしてくれる人がどこかにいてくれている。誰かがいる。

それな。

 

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↑財布は90分後にまるっと戻ってきた。日ごろの自分の場合を顧みて、自分が恥ずかしくなった。