品貧生活研究所

神奈川県横須賀市汐入町の谷戸(自動車の入れない階段を200段登る)における、「品」と「貧」の共存を目指す生活を研究し、その成果を報告する在野機関。研究所にカフェの併設を目論む。

マスター課題図書『夜と霧』

『「苦悩という情動は、それについて明晰判明に表象したとたん、苦悩であることをやめる」』(注1)

 

ナチス時代の収容所生活のお話。

 

以下【『』p】はすべて『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル 新版 池田香代子訳よりの引用。

 

マスターから借りた本には、2か所、赤線が引っ張ってあった。
ある種の運命を背負ってしまった人たちの、たどり着く先は自死もしくは以下のような境地なのであろう。

1か所目:

『「世界はどうしてこんなに美しいんだ!」』p66

普通の人々(僕も含む)の味わうことのない、苦悩を重ねた人間たちの差し出すテーゼのあまりのひらべったさに、ひねりの無さに、あきたりなさを感じる。
意地悪であろうか。不謹慎であろうか。それとも、人間の堕ち切れなさへの中傷心を持っているからだろうか。

真理は、それへの道を、いばらの地獄の苦悩の道を経た人間にはぐるっと一周してすっきりシンプルなものになる。
いろいろあって、結論として出た答えがカンタンな言葉に収まりをつける。
しかし、あっさりと飲み込みやすいお手頃な真理として、道を経ずに、苦労をせずに、金と時間を対価に、お手頃に得る人々あり。

「そいつらは怠惰なのか」
「苦労自慢、不幸自慢テストが、適性検査が必要ですか」
「よりつらい奴が偉いのか」

そんなことは無い、と言いたい。教祖も信者もそれぞれの苦悩を持っている。真理であるならば、それが真理であるからこそ、それを手にするまでのプロセスは問題にはならない。宗教であること、宗教法人という形態に限る話ではない。

「ビーフorチキン?」くらい卑近に、日常に転がっているいわば趣味の問題である。

要するに我々は(私も含む)なにを腹にいれて生きていくのかということである。

『生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請をを充たす義務を引き受けることにほかならない。』p130

義務、義務、義務。
勤労、教育、納税。
働きたくない。何もしたくない。税金は免除して。

 『具体的な運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを責務と、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。だれもその人から苦しみを取り除くことはできない。だれもその人の身代りになって苦しみをとことん苦しむことはできない。この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引きうけることに、ふたつとないなにかをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。』p131

なんともこの「運命を引き当てる」ってのが良い。
なんか一等賞を引き当てるみたいで、威勢が良い。

2か所目:『そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。』p61

 

わたしは理解していない。

 

 

 

(注1)『エチカ』第五部「知性の能力あるいは人間の自由について」定理三」』P125より引用。孫引き:スピノザの『エチカ』の言葉である。

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『ユーモアへの意志、ものごとをなんとか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。』p72