品貧生活研究所

神奈川県横須賀市汐入町の谷戸(自動車の入れない階段を200段登る)における、「品」と「貧」の共存を目指す生活を研究し、その成果を報告する在野機関。研究所にカフェの併設を目論む。

ナリワイ起こし イッパツ先生 マインドコントロール編

セミナー、勉強会と言うワードを聞くと、僕は「意識が高い」とか「ネットワークビジネス」という、やっかみや悪いイメージを想起する。

自己研鑽、自己啓発、「成長」は良いことである。

ただ、「金」の匂いや人間の「欲」の生々しい臭いがする。

そんな、人の「生々しさ」、それの発する臭いを避けてきた。

一概に否定してきた。


でも、そういう臭いにこそ「おもしろみ」が隠れているのだと、うすうすに徐々に気づく。承服。

齢を重ねると、その「おもしろみ」に気づかざるを得ないのかもしれない。
つっぱねたり、アンチであることには体力がいるから。

『銀河鉄道の夜』の言葉で、第三稿だったか。

その人が信じている神様を信じることはできなくてもさ、その人自身のことを信じることって、できるじゃないか

みたいな言葉がある。
原文だと、もっと親切な言い回しで、グッとくるのだけど。

自分ではない、他の人が、何を好きだって、別にいいじゃんって。
そういうもんだって、受け止めましょうやって。

他の人のことはOK。

しかし、自分が主義主張を持つことを受け入れることはためらう。
はたからみて、アイツは○○なヤツだと言われるのとは別の問題で。

「自分はこれを、こういう考え方を信じています。あなたはどうですか?」

↑こういうセリフが言えない。

他の人からの規定よりも、自分で自分を規定することに対する逡巡がある。

しかし、暫定的でも、「(仮)」、でも言わなければならぬ。
何よりも、僕が言いたいのだ。

~~~

ラボに参加してきました。公民館で講師のプレゼンと質疑応答。
*ラボ→研究会・研究機関・実験室のような意味合い

最近読んだ本に書いてあったが、
人は自分が聴きたいことしか聴かないそうで。
あと、1時間の話だと、自分にとって重要なのはせいぜい5分くらいだそう。

で、僕がイッパツ先生から教わったのは、

「自分に暗示をかけてでも、信じるしかない。祈るしかない」

という心の持ち方である。

「今夜本田のフリーキックが決まりますように~」

くらいのレベルで、
祈るという行為を、生活に取り入れたっていいじゃないか。
あの人の日々の暮らしがうまくいきますようにと、祈ったていいじゃないか。
祈りを特定の神様を信じる人だけの特権的な行為だと、決めつけなくたっていいんじゃないかな。

グラスの底に顔があってもねえ。

 

f:id:fuchiwakitsutomu:20180624143143j:plain

↑来るべきカフェへの道。100段の道も一歩一歩。ありきたり。